篠山鳳鳴高校の校歌作曲者
酒井弘先生のこと
昭和の初め、高城山の麓の八上村から鳳鳴中学校への通学は、自転車が許されなくて徒歩でした。数名が一団となって学校に向かうその中に、いつも美しいメロディーで草笛を吹いている少年がいました。その草笛少年の名は、酒井弘(ひろむ)。長じて音楽家となり、芸大教授となって音楽界で活躍しました。「そらぁなあ! あの草笛は、ほんまに上手やったでえ!」老いて後も、親友たちはいつまでもなつかしがっていました。
鳳鳴中学校の寄宿舎には、将来の軍人を目ざして他の地方から来ている生徒たちがたくさんいて、まさに軍人養成予備校の一面がありました。その鳳鳴中学校から、開校以来初めて音楽を志す生徒が現れました。昭和7年3月、47回卒業の草笛少年でした。大阪音楽学校、さらに東京音楽学校と進み、声楽家となりました。
昭和15年、このところ中國大陸で活躍がめざましい航空隊を讃える「若鷲の歌」の発表会です。東京・日比谷公園の野外音楽堂のステージに、新進気鋭の声楽家となって活躍している、かつての草笛少年が立って歌っています。歌唱指導では聴衆も一団となって声を張り上げ、歌声は日比谷の森に響き渡りました。その頃、日本は中国との戦いのさ中で、北新町出身の小谷少佐が渡洋爆撃の隊長として華々しい戦果をあげておられました。東京で学んでいた私と姉は、この催しに参加することができて感激で胸がいっぱいになりました。
鳳鳴高校の校歌は、校長・高橋誠一先生の御尽力で、神戸出身の詩人・竹中郁の作詞、卒業生・酒井弘の作曲で一新しました。発表会の機会を逃してしまった事は残念でなりません。一度は母校のステージで、さわやかなテノールの歌声を響かせていただきたかったです。
校歌にまつわる思い出があります。
「はるかをのぞむ眼ざしは」で始まるのですが、その頃の多紀郡の人々は、ザ行とダ行の発音が反対で、「のぞむ」は「のどむ」「まなざし」は「まなだし」となってしまう生徒が多かったです。これをしっかり正すことが、校歌指導の第一歩でした。
当時、合唱部の部長さんだった桂文珍(本名・西田勤)さんも、この発音があやしくて、部室に呼んで特訓してあげたこともありました。歌い継がれて早くも五十年となりました。
まだ一つ忘れていたことがありました。
草笛通学の八上の生徒の一団は、学校の帰り道、京口橋の橋の下で、おまんじゅうを食べました。そして、学校からは一同停学という、うれしい処分を受けました。
なんと言うことでしょうか。
【郷友 第四六二号 令和3年5月創立・創刊130周年 記念号より抜粋】
内山茂子(高女25回)